六ヶ月
食欲がなくなった。
たまにあることだ。わたしはだめになった時、すぐにものが食べられなくなる。
元気な時にはあれだけ輝いて見えた近所の飲食店が、鬱陶しいネオンサインと化してしまう。
やっとの思いでコンビニを訪れても、食べ物が食べ物に見えないのだ。何を見ても魅力的に映らない。陳列棚に興味がないと、今何を眺めているのかさえわからなくなる。
しかし、胃に何も存在しないという不快感は食べないと消えないものだ。固形物は飲み込むのが辛いから、ウィダーinゼリーを無理やり詰め込んで、気持ち悪さをこらえている。
そしてこれは生きてきて初めてのことだが、大好きな音楽に、抑揚がない。何を聞いても、何回繰り返しても、何も感じられない。馴染みのある心地の良いリズムが頭の中で一切反響しない。そして、大して聴いた記憶もなくいつのまにか終わってしまっている。
これらの現象は、最近あった悲しいことに由来したストレスかと、自分勝手な行いから目を逸らして考えた。
しかし、違かった。
元々わたしはこうだったのだ。
将来が不安で、かなしくて、さみしくて、つらい、今までそんな思いに何度押しつぶされそうになったか。
つい最近までは、ずっと持ち合わせていたその類の気持ちを、人への想いに全て変換していた。喜怒哀楽全ての感情に変換してぶつけていたから、忘れていた。
わたしはこんなにだめだった。
誰かのために生きたいとか、運命の人と結婚したいとか、愛する子どもが欲しいとか、そんな綺麗事を願うまでもない。
わたしはわたしのために生きることが辛いのだった。
鏡を見ると、中途半端な顔をしたわたしがいる。
ここ三年ほど頑張ってきた歯の矯正は、年内で終わるらしい。
歯の矯正が終わるまでは、生きたい。可愛くなることは生きる上での一つの軸だったから。わたしの顔が完成して、満足がいって、それでも辛かったら、
死んでしまおう。
半年後のわたしがこの日記を見たら、過去の自分にその選択を肯定してもらうことができる。なんて便利なものなのだろうか。
自分だけの人生だ。
何をしてもいいんだ。どんな選択をしてもそれがわたしなのだ。
ああ、それにしても、どうしようもなく苦しい。愛想を振りまいて、人に気を遣って、毎日何かを成し遂げなくてはいけない、日常から逃げたい。自分のために何年も生きていける自信がない。吐き気がすごいが、吐けるものは身体のどこを探ってもない。
そして、助けて、なんて誰かに言う資格はない。
だからこうして、インターネットの宇宙の端っこにそっと置いておく。そうすれば、いつかは星屑となって消えてしまうだろうから。