夏を置いて

8月が終わる。

塞ぎ込んで何をする気にもなれなかった1年目から抜け出した、社会人2年目の夏はとても楽しくて、今までで一番楽しい夏といっても過言ではなかった。

海にも行ったし、花火にも行った。飲みにもたくさん行った。
そんな素敵な場所に、大好きな人たちに、私が必要とされていた。
人のありがたみを、痛感した日々だった。


そして、散々引きずっていた人とも会った。
連絡が来た時は、まさかと思った。
心臓がきゅっとなって、それ以外何も考えられなくなった。

答えは既にそこにあったのだろうか。

最初は気まずい気がしたけど、話していくうちにあの頃に戻っていくようだった。
夢みたいな数時間だった。
テーブルを整理するためにその人が皿を動かす仕草でさえ、懐かしく感じた。

元カノの話を聞いたとき、わたしは悪い癖で「その子より私の方が可愛いでしょう」と言った。
返ってきた「それは比べられないかな」という言葉が、私を貫いた。

人を下げない彼が好きだった。
付き合っていたとき、不安に見舞われた私に、「元カノは元カノ、今は今で別物だよ」と伝えてくれたことを思い出した。

彼が彼らしく、素敵な感性を持ちながら生きていること。
その事実だけが知れただけでよかった。


もう、彼のことは好きじゃなくなっていた。
未練がましく思っていた時間は、綺麗な思い出と、醜い執着の狭間で溺れていただけだった。


たった、それだけのことだった。

 

つらい。

魂天までの道は、果てしなく長い。

 

 

1359半荘。

ネット麻雀の1半荘の平均を仮に30分だとしたら、費やしてきた時間は約680時間。

 

 

睡眠時間を7時間とした場合、1ヶ月と1週間弱休憩なしで打ち続けてきた計算になる。

 

 

趣味の時間としては特段長いものではないし、周りにはもっと打っている人がいる。

かの有名な作家、マルコム・グラッドウェル氏によると、人が何かを身につけるのには10,000時間が必要なのだという。

私が雀魂に費やした時間は、10,000時間の十分の一にも満たない。

 

 

そもそも麻雀に初めて触れたのが大学1年の終わりだと思う。

雀荘に自分の意思で行くようになったのは大学2年のいつ頃だろうか、まるで記憶がない。

 

 

少なくとも、まだ私が麻雀を知ってから3年弱しか経っていない。雀魂を始めてからは1年と8ヶ月くらいしか経っていない。

 

牌効率や押し引きに迷うこと自体は少なくなったが、正しい選択が出来ているか怪しい場面は今でもいくらだってある。

 

 

趣味、娯楽、暇つぶし、成長記録。呼び方はなんでも良い。自分が自分でいられた場所。

 

昇段までの過酷な時間は言葉では表しきれない。トップをとればガッツポーズして喜んだし、ラスをとれば次の日まで負の感情を引きずることもあった。

 

 

現在私は決して強いわけではないが、雀魂での特訓のおかげで以前よりマシにはなれたと思う。

正しくは、強い人の打ち方が理解できるようになり、真似するようになったといった方がいいかもしれない。

 

正直当初がとにかく酷かったから、今とは比較の対象にもならない。特に放銃率なんかは当初の酷さの名残が如実に表れている。

 

 

 

だが、私が今ぶち当たっている問題点はそこではない。

なりたい自分になりたいという願望が、本当に自分にとって大切なものなのかという点だ。

 

就活の時に自己分析ではっきりと意識したのだが、私は人に認められたいという意欲が人一倍高い。承認欲求が強いのだ。

 

一般に承認欲求が強いと言えば、インスタグラムに切り取り線のようなストーリーを載せて、キラキラした格別な日常を自慢したりだとか、常にSNSへ張り付いて超絶つまらない投稿を機械のエラーのように大量に繰り出すタイプだろうか。

その辺りの人々が苦手すぎて、最悪の言い方をしてしまうのは許して欲しい。

 

人は、過去の自分と同じ性質を持つ人を嫌う習性があるらしいから、そういうことなのだ。

 

 

以前は私もSNSで自分をアピールするのが好きだった。だけど時が進むに連れて、自分のことを常に見て欲しいと思えるような人がいなくなってしまった。

これ以上は時間と精神力の無駄だと感じアカウントを消した。

 

 

 

とにかく、当時の私はなんらかの特別であることに固執していた。

良い大学に通っている若くて可愛らしい女の子、そんな人間はいくらでもいる。

ただ麻雀が好きな女の子というと、私の周りにはいなかった。

また男性人口が多い趣味だから、雀荘において自分の姿は目立った。

 

そんな不釣り合いな場所で実力をつけることができたら、私は珍しくなれるのではないか。存在価値は今よりも上がって、人に認められるようになるのではないかと思った。

 

私は当時他にやり込みたいこともない空っぽの人間だったから、自分の承認欲求を満たすにはこれしかない!と思ってしまった。

 

 

 

結果、私は麻雀の強さ(=自身のアイデンティティ)を証明する1番の近道を、ネット麻雀の雀魂で「魂天」という最高段位を獲得することだと考えた。

 

それからというもの、家でも外でも、ありとあらゆる日常のワンシーンを雀魂に費やした。

頭が狂うほど打っていた訳ではないが、それでもここ2年弱はかなり熱中していた。

 

 

 

私が戦う上で一番重要視していたのは、押し引きでも牌効率でも場況読みでもなく、ネット麻雀の形式がラス回避麻雀であることだ。

 

麻雀の醍醐味は他の3人に勝つことだと思うが、ネット麻雀の場合はラスを回避することが一番偉い。

ラスを回避できるのなら、着順に大した違いはない。

 

 

麻雀の本当に楽しい瞬間は、私にとってはストレートに勝負を挑むことだろうか。

勝ちたいという強い意志を宣言牌と立直棒に込めて、牌山に伸ばす手はいつだって震えた。

 

最悪の結果は怖いけど、運命に期待することはどうしようもなくわくわくすることで、度々訪れるその瞬間が愛おしかった。

 

 

 

雀魂での勝負は、そのような楽しさはほとんどない。ある程度の実力をつけたら、まず普通に放銃することは少ない。

 

負ける理由は、ツモられ続けて手が入らない・追っかけ立直に放銃・避けようのないきしょい手に放銃のどれかになってくる。

 

直の精度についてはまだまだ言えたものではないが、その瞬間の場況や残局数を加味して、立直判断は慎重にしているつもりだ。

それでも力が及ばなかった場面は数え切れない。

 

 

 

ああ。

私が魂天を目指すことになんの意味があるだろうか。

 

人から特別だと認められるほど強くなれる?忍耐力が身につく?リアルの麻雀で勝てるようになる?

 

 

 

それは、このゲームを続けるために確かに累積する苦痛を超えるほど魅力的なものだろうか。

 

 

 

魂天を目指す上で感情は邪魔で、取っ払ったつもりだった。

しかし、人間はロボットにはなれない。どんなに平常心を意識しようとも、悔しさは心の奥で暴れ回って、精神を不安定にさせる。

 

勝ちを重ねても、どうしようもないラスはやってくる。トップを2回とっても、ラスを一回取ればマイナスだ。

勿論トップだけ取れる訳ではないから、2位や3位を何度か重ねてやっとの思いで手にしたポイントは、一回のどうしようもない半荘で消えてしまう。

 

昔はいくらだって反省すべき点があった。こんな戦い方をしていたなら勝てるはずないとラスに対して納得し、同じミスをしないことで成長できた。

 

しかしもう、ラスった半荘の改善点は見当たらない。

本当にどうしようも無いのに、ポイントは減る一方だ。

 

 

 

そもそも散々勉強して、実際に正しい判断を選択しているにも関わらず、成果に繋がらないなんて、異常じゃないか。

 

どう考えても正常な人間が正しさを突き詰めることに向いていない。

麻雀は、こんなに時間と精神を費やして学ぶ価値のあるものなのか。

 

自分も含めて、麻雀の勝ち負けに固執している人々が馬鹿らしく思えてくる。

 

 

 

自分に必要なことを教えてくれた麻雀が、自分と大切な人とを出会わせてくれた麻雀が、本当の本当に心の底から大好きだった麻雀が、あやふやな概念になっていくのを感じる。

 

 

 

本当は気づいているのだ。

 

私は特別な存在ではないし、これからもそうであるということに。

 

無数に存在する、都内在住の社会人である私が魂天を諦めてネット麻雀をやめても、見損なったと失望する人なんていない。

 

そして何より、自分がしていることの責任を他人からの評価に託していることが間違っているのだ。

 

 

 

魂天になっている方はたくさんいる。ただ、私の実力や忍耐力が及ばないだけのことだ。

 

並外れたことを成し遂げられるという自分への過剰な期待は捨てて、これからの時間を効率的に使った方が良いのではないだろうか。

 

全ては私の中で完結することなのに。

 

 

 

どうして、諦められないのだろうか。

 

 

六ヶ月

 

食欲がなくなった。

 

たまにあることだ。わたしはだめになった時、すぐにものが食べられなくなる。

 

元気な時にはあれだけ輝いて見えた近所の飲食店が、鬱陶しいネオンサインと化してしまう。

 

やっとの思いでコンビニを訪れても、食べ物が食べ物に見えないのだ。何を見ても魅力的に映らない。陳列棚に興味がないと、今何を眺めているのかさえわからなくなる。

 

しかし、胃に何も存在しないという不快感は食べないと消えないものだ。固形物は飲み込むのが辛いから、ウィダーinゼリーを無理やり詰め込んで、気持ち悪さをこらえている。

 

そしてこれは生きてきて初めてのことだが、大好きな音楽に、抑揚がない。何を聞いても、何回繰り返しても、何も感じられない。馴染みのある心地の良いリズムが頭の中で一切反響しない。そして、大して聴いた記憶もなくいつのまにか終わってしまっている。

 

これらの現象は、最近あった悲しいことに由来したストレスかと、自分勝手な行いから目を逸らして考えた。

 

しかし、違かった。

元々わたしはこうだったのだ。

 

将来が不安で、かなしくて、さみしくて、つらい、今までそんな思いに何度押しつぶされそうになったか。

 

つい最近までは、ずっと持ち合わせていたその類の気持ちを、人への想いに全て変換していた。喜怒哀楽全ての感情に変換してぶつけていたから、忘れていた。

 

わたしはこんなにだめだった。

 

誰かのために生きたいとか、運命の人と結婚したいとか、愛する子どもが欲しいとか、そんな綺麗事を願うまでもない。

 

わたしはわたしのために生きることが辛いのだった。

 

鏡を見ると、中途半端な顔をしたわたしがいる。

 

ここ三年ほど頑張ってきた歯の矯正は、年内で終わるらしい。

 

歯の矯正が終わるまでは、生きたい。可愛くなることは生きる上での一つの軸だったから。わたしの顔が完成して、満足がいって、それでも辛かったら、

 

死んでしまおう。

 

半年後のわたしがこの日記を見たら、過去の自分にその選択を肯定してもらうことができる。なんて便利なものなのだろうか。

 

自分だけの人生だ。

何をしてもいいんだ。どんな選択をしてもそれがわたしなのだ。

 

ああ、それにしても、どうしようもなく苦しい。愛想を振りまいて、人に気を遣って、毎日何かを成し遂げなくてはいけない、日常から逃げたい。自分のために何年も生きていける自信がない。吐き気がすごいが、吐けるものは身体のどこを探ってもない。

 

そして、助けて、なんて誰かに言う資格はない。

 

だからこうして、インターネットの宇宙の端っこにそっと置いておく。そうすれば、いつかは星屑となって消えてしまうだろうから。

 

かいてみる

人は一日に9千回とか6万回とか思考してるって聞くけど、振り幅適当すぎるよね。

 

そんな中で生まれた自分の素晴らしい思考を、人に伝えたい時がくる。

 

でも私は話が下手。頭の中でうまく考えがまとまらないから、口にしても話を論理的に伝えられないの。きっと聞いてくれる相手はいつも困ってる。

 

だから、こうやって書いてみることにした。自分の考え、気持ち、感覚を、うまく頭でまとめるために。

 

主張、事実、理由づけ。これを意識していくのです。

 

この三日坊主野郎。でも続けばいいなあって思ってる。

 

継続は素敵ですから。早速理由は曖昧ですが。